中2の時、母親が少しずつ不安定に
坂本さんが母親のケアを始めたのは、中学2年生のときでした。それまでの母親は強くて優しく、離婚と再婚を繰り返しながらも、坂本さんと4歳年上の姉を一生懸命育ててくれました。
――ケアを始めたきっかけを教えてください。
「母が再婚相手とリビングで喧嘩しているとき、自分の手首を傷つけてしまったんです。両親から理由は教えてもらえませんでした。それから母の精神状態が少しずつ悪くなっていきました」
――当時、お母さんはどんな様子でしたか?
「僕が外出から戻ってくると、電気の消えたリビングから『おかえり』という声が聞こえ、母が暗い顔でタバコを吸っていました。寝ているときもあって、僕が『どうしたの?』と声をかけると、『お金がない』という経済的な不安や再婚相手への不満などくらい話を始めるんです。そのうちだんだん気持ちが高ぶって泣き出し、時々過呼吸の発作を起こして目つきがぼんやりしてしまう。そういう時は僕が母の手をつないで目を見て一緒に呼吸を合わせると、母は泣き疲れて眠る。そうすると僕もやっと眠ることができました」
――坂本さんのケアに対して、お母さんは何と言っていましたか?
「『お世話してくれてごめんね』『こんな夜遅くまでごめんね』『明日学校なのにごめんね』、といつも謝っていました」
――ケアするときはどんな事に気を配っていましたか?
「24時間365日、僕は母が不安になったり体調が悪くなったりしないよう、自分の振る舞い方をいつも考えて、ひたすら穏やかに接しようと頑張っていました」
お母さんに泣いてほしくないから、
なんでもないふりをしてきた学校時代
中学時代は陸上部で部長をつとめ、走り高跳びで大会に出場したこともある坂本さん。学校生活では母親に心配をかけないよう努力してきました。
――実際はどんな状況だったのですか?
「中学2年の頃、数学で悪い成績をとってしまったことがありました。もちろん母には相談できません。これでは進級できないんじゃないか?と不安で、毎晩自分の部屋の窓ガラスに『進級できますように』と指でなぞっていました。そうしないと眠れなくなってしまったんです」
――進路はどうやって決めたのですか?
「公立の工業高校を選びました。母から『うちにはお金がない』とさんざん聞かされていたから、お金をかけず手に職をつけて就職ができるような学校を探して、母の再婚相手にも相談しませんでした」
まるでロボットのように自分の感情が消えていった
坂本さんは、母親に恩返しをしたい、という強い思いから一人でケアをしていました。けれど病気のせいで感情的になる母親と生活しているうちに、坂本さんの心が不安定になっていきました。
――当時、坂本さんはどんな状態でしたか?
「母の話を聞いていると、ロボットのように感情が消えていって、何かを感じたり考えたりする力が失われていくようでした」
――それでも、毎日お母さんに寄り添っていた?
「はい。僕は、母の足音ひとつで「今日は元気がないな」とわかるほど、いつも神経をとがらせていました。でも高校時代のある日、母から『死にたい』と言われた時は、ドキッとしました。ボロボロボロと何かが全部崩れていくようでした」
母親との二人暮らし。
誰にも相談をせず、誰からも気づかれず過ごした
坂本さんが高校2年生の頃、母親から「うつ病」と「パニック障害」という病気で病院に通っていることを告げられます。同じ頃、母親と再婚相手は別々に暮らすようになりました。姉もやがて家を出ていきました。そして、坂本さんと母親の2人暮らしが始まりました。
――たった一人で不安定なお母さんと生活することについて、誰かに相談したことは?
「ありません。僕が母を一番理解していて、役に立てると強く信じていたからです」
――お母さんの様子をみて、心配する人はいなかったのですか?
「いません。母は、外では頑張って普通に振る舞うことができたので、まわりの人たちは誰も病気に気づきませんでした。学校行事では、三者面談や家庭訪問にちゃんと対応してくれたし、運動会にも出席してくれました。でも頑張ってしまったせいで、疲れて寝ていることがありました」
初めて打ち明けた本音。転機が訪れる
高校卒業後は、福祉関係の専門学校に進学。その後、精神疾患を抱える人のための福祉施設を運営する団体に就職しました。働き始めて1年目、転機が訪れます。
――どんな出来事があったのですか?
「当時、再婚相手と母親の離婚が決まったことで、再婚相手に助けてもらっていた生活するためのお金が、もらえなくなってしまったんです。しかも家のローンは10年分も残っている状態でした。母から『ローンをあなたが背負ってこれまで通り一緒に暮らすか、それとも自宅を売って別のところで暮らすか』という話をされました」
――坂本さんは、どちらを選んだのですか?
「最初の答えは『僕がローンを背負う』でした。でも僕の給料をローンの返済にあてたら生活していけない。しかも専門学校時代や就職後は、自分が健康で安定して働き続けなければ僕も母も暮らしていけなくなってしまうんじゃないかというプレッシャーが強くなっていました。そこで数日後『この家を売って、一人暮らしをしてみたい』と言ってみました」
――お母さんは、どんな反応でしたか?
「母は、『わかった、そうしよう』『応援するよ。私は私で一人で暮らすし、拓は拓で暮らしていいよ』と言ってくれたんです」
――どう思いましたか?
「まるで病気になる前の母みたいで、おどろきました。お母さんは、やっぱり僕を大切に思ってくれていたんだ。病気で弱くなったと思い込んでいたけれど、もっと甘えておけばよかったな。そうすれば、今と同じような強く優しい言葉をかけてくれただろうな、と思いました」
それから、仕事で忙しい坂本さんは母親と協力しながら、家の処分や別々に暮らすための手続きをこなし、新生活に向かって進んでいきました。
母と別々に住むことで家族に変化が起こった
別々に暮らし始めた当時、坂本さんは毎週、参加していた社会人バスケットチームの練習帰りに母親の家に立ち寄っていました。一人暮らしの母親の様子を見るためでしたが、住まいが離れたことでだんだん足が遠のくようになりました。その結果、ケアの形にある変化が起こります。
――どんな心境に変わったのですか?
「最終的には、『もう行かなくても大丈夫なんじゃないかな』、という気持ちになりました。別々に暮らして距離を取るのは大事な行動だと思いました」
――現在はどんな関わり方をしていますか?
「母は、自分の体調が悪くなったり生活面で困ったりしたとき僕に連絡をくれるので、その時は手助けしています。今はSNSで連絡をとりあう以外、1年半くらい会っていません」
今、おもに母親の面倒をみているのは坂本さんの姉です。母親をコンサートに連れて行くなど、母とのかかわり方に変化が起きたのは坂本さんだけではなかったようです。
支援者として経験を積んだからこそ、わかったこと
坂本さんは、専門学校で精神保健福祉士という国家資格を取りました。精神疾患のある人たちの生活や社会復帰を手助けする仕事です。就職先の福祉施設では、母と同じように精神疾患のある人の生活の相談や通院などの支援や、内職作業の手伝いなどを担当していました。
――培った専門知識は、お母さんのケアに役立ちましたか?
「職場では母と同じうつ病やパニック障害の人、そのほかさまざまな精神疾患がある人に真摯に対応できていました。でも、母に対しては、支援者としての関わり方ができなくてモヤモヤしていました。泣きながら話しかける母に冷たくしたりイライラしたりすることもありました」
――どんな気づきがありましたか?
「僕は母のことを仕事で出会う障害者の人たちと同じように接することができませんでした。僕にとって母は『母親』だからです。同じように対応することができないことで、支援者としてどうなんだろう?と悩みました。そして気づいたのは、『家族は家族、支援者にはなれない』ということでした。家族としてその人を思う気持ちがあるから、どうしてもそれが出てくる。でも、それは当たり前のことで。だから、何かを犠牲にしてまで面倒を見ることが家族の役割ではない。辛い時には辛い、と言っていいと思うようになりました」
辛くなったら逃げて。
ちょっと先を生きている僕らの姿を見てほしい
2018年1月、坂本さんは、自分の体験をいかして「精神疾患のある親をもつ子どもの会『こどもぴあ』」という団体を作りました。子ども達が、自分のことをだれかに話しても大丈夫だと思えるよう、仲間と色んな話ができる居場所づくりを目指しています。
――坂本さんと同じような経験がある子ども達へ、伝えたいことは?
「家族のケア自体は悪いことではありません。加害者と被害者の関係でもない。ただ、自分の時間や気持ちが奪われたら、逃げてもいいし誰かに助けを求めてもいいんです。必ず助けてくれる人がいます。もし逃げることができなかったら、あなたと同じような仲間がいることを知ってほしい。誰にも相談できないときや、将来に不安を感じた時は、あなたよりちょっと先を生きている僕たちの姿を見て安心してほしい。僕も辛かった体験をほかの人に打ち明けて、今なんとか生きていけている。だからあなたにも、ちゃんと未来は訪れます」