家族支援者にはなれない

づけたことでまれた
とのしい関係

坂本拓さん

坂本さん

精神疾患をもつどもの『こどもぴあ』」の代表坂本さん(33)には、うつとパニック障害母親(50)がいます。中学2年生発症し、坂本さんはにも相談せず、社会人1年目までたった一人母親ってきました。坂本さんがこれまで経験してきたことや、境遇子ども達けたメッセージをうかがいました。

2の母親少しずつ不安定に

坂本さんが母親のケアをめたのは、中学2年生のときでした。それまでの母親くてしく、離婚再婚しながらも、坂本さんと4年上一生懸命ててくれました。

――ケアをめたきっかけをえてください。

 「再婚相手とリビングで喧嘩しているとき、自分手首つけてしまったんです。両親から理由えてもらえませんでした。それから精神状態少しずつくなっていきました」

――当時、おさんはどんな様子でしたか?

 「外出からってくると、電気えたリビングから『おかえり』というこえ、でタバコをっていました。ているときもあって、が『どうしたの?』とをかけると、『おがない』という経済的不安再婚相手への不満などくらいめるんです。そのうちだんだん気持ちがぶって出し時々過呼吸発作こしてつきがぼんやりしてしまう。そういうをつないで一緒呼吸わせると、れてる。そうするともやっとることができました」

――坂本さんのケアにして、おさんはっていましたか?

 「『お世話してくれてごめんね』『こんな夜遅くまでごめんね』『明日学校なのにごめんね』、といつもっていました」

――ケアするときはどんなっていましたか?

 「24時間365不安になったり体調くなったりしないよう、自分振る舞い方をいつもえて、ひたすらやかにしようと頑張っていました」

さんにいてほしくないから、
なんでもないふりをしてきた学校時代

中学時代陸上部部長をつとめ、高跳びで大会出場したこともある坂本さん。学校生活では母親心配をかけないよう努力してきました。

――実際はどんな状況だったのですか?

 「中学2数学成績をとってしまったことがありました。もちろんには相談できません。これでは進級できないんじゃないか?と不安で、毎晩自分部屋ガラスに『進級できますように』とでなぞっていました。そうしないとれなくなってしまったんです」

――進路はどうやって決めたのですか?

 「公立工業高校びました。から『うちにはおがない』とさんざんかされていたから、おをかけずをつけて就職ができるような学校して、再婚相手にも相談しませんでした」

まるでロボットのように自分感情えていった

坂本さんは、母親恩返しをしたい、といういから一人でケアをしていました。けれど病気のせいで感情的になる母親生活しているうちに、坂本さんの不安定になっていきました。

――当時坂本さんはどんな状態でしたか?

 「いていると、ロボットのように感情えていって、かをじたりえたりするわれていくようでした」

――それでも、毎日さんにっていた?

 「はい。は、足音ひとつで「今日元気がないな」とわかるほど、いつも神経をとがらせていました。でも高校時代のあるから『にたい』とわれたは、ドキッとしました。ボロボロボロとかが全部れていくようでした」

母親との二人暮らし。
にも相談をせず、からも気づかれごした

坂本さんが高校年生母親から「うつ」と「パニック障害」という病気病院っていることをげられます。母親再婚相手別々らすようになりました。もやがてていきました。そして、坂本さんと母親2人暮らしがまりました。

――たった一人不安定なおさんと生活することについて、かに相談したことは?

 「ありません。一番理解していて、ってるとじていたからです」

――おさんの様子をみて、心配するはいなかったのですか?

 「いません。は、では頑張っ普通うことができたので、まわりのたちは病気づきませんでした。学校行事では、三者面談家庭訪問にちゃんと対応してくれたし、運動会にも出席してくれました。でも頑張ってしまったせいで、れてていることがありました」

めて打ち明けた本音転機れる

高校卒業後は、福祉関係専門学校進学。その精神疾患えるのための福祉施設運営する団体就職しました。めて1年目転機れます。

――どんな出来事があったのですか?

 「当時再婚相手母親離婚まったことで、再婚相手けてもらっていた生活するためのおが、もらえなくなってしまったんです。しかものローンは10年分っている状態でした。から『ローンをあなたが背負ってこれまで一緒らすか、それとも自宅ってのところでらすか』というをされました」

――坂本さんは、どちらをんだのですか?

 「最初えは『がローンを背負う』でした。でも給料をローンの返済にあてたら生活していけない。しかも専門学校時代就職後は、自分健康安定してけなければらしていけなくなってしまうんじゃないかというプレッシャーがくなっていました。そこで数日後『このって、一人暮らしをしてみたい』とってみました」

――おさんは、どんな反応でしたか?

 「は、『わかった、そうしよう』『応援するよ。一人らすし、らしていいよ』とってくれたんです」

――どういましたか?

 「まるで病気になるみたいで、おどろきました。おさんは、やっぱり大切ってくれていたんだ。病気くなったとみしていたけれど、もっとえておけばよかったな。そうすれば、じようなしい言葉をかけてくれただろうな、といました」

それから、仕事しい坂本さんは母親協力しながら、処分別々らすための手続きをこなし、新生活かってんでいきました。

別々むことで家族変化こった

別々らしめた当時坂本さんは毎週参加していた社会人バスケットチームの練習帰りに母親っていました。一人暮らしの母親様子るためでしたが、まいがれたことでだんだんのくようになりました。その結果、ケアのにある変化こります。

――どんな心境変わったのですか?

 「最終的には、『もうかなくても大丈夫なんじゃないかな』、という気持ちになりました。別々らして距離るのは大事行動だといました」

――現在はどんなわりをしていますか?

 「は、自分体調悪くなったり生活面困ったりしたとき連絡をくれるので、その手助けしています。はSNSで連絡をとりあう以外、1年半くらいっていません」

、おもに母親面倒をみているのは坂本さんのです。母親をコンサートに連れくなど、とのかかわり変化こったのは坂本さんだけではなかったようです。

支援者として経験んだからこそ、わかったこと

坂本さんは、専門学校精神保健福祉士という国家資格取りました。精神疾患のあるたちの生活社会復帰手助けする仕事です。就職先福祉施設では、じうつやパニック障害、そのほかさまざまな精神疾患がある真摯対応できていました。でも、しては、支援者としてのわりができなくてモヤモヤしていました。きながらしかけるたくしたりイライラしたりすることもありました」

――どんなづきがありましたか?

 「のことを仕事出会障害者たちとじようにすることができませんでした。にとっては『母親』だからです。じように対応することができないことで、支援者としてどうなんだろう?とみました。そしてづいたのは、『家族家族支援者にはなれない』ということでした。家族としてその気持ちがあるから、どうしてもそれがてくる。でも、それはたりのことで。だから、かを犠牲にしてまで面倒ることが家族役割ではない。にはい、とっていいといました」

くなったらげて。
ちょっときているらの姿てほしい

20181坂本さんは、自分体験をいかして「精神疾患のあるをもつどもの『こどもぴあ』」という団体りました。どもが、自分のことをだれかにしても大丈夫だとえるよう、仲間んなができる居場所づくりを目指しています。

――坂本さんとじような経験があるどもへ、えたいことは?

 「家族のケア自体いことではありません。加害者被害者関係でもない。ただ、自分時間気持ちがわれたら、げてもいいしかにけをめてもいいんです。けてくれるがいます。もしげることができなかったら、あなたとじような仲間がいることをってほしい。にも相談できないときや、将来不安じたは、あなたよりちょっときているたちの姿見て安心してほしい。かった体験をほかのけて、なんとかきていけている。だからあなたにも、ちゃんと未来訪れます」